
上の映画ポスター、滝を落ちていく十字架にはりつけられているのは、イエズス会の宣教師だ。滝の上に住む先住民のグアラニー族によって、流されて命を落とした。映画はこのショックな場面から始まる。
舞台はスペインの植民地だった南米のパラナ川上流域。現在のパラグアイ付近だ。
その後、新しい宣教師のガブリエル神父(ジェレミー・アイアンズ)が派遣されることになる。その同僚神父として『シンドラーのリスト』のシンドラーをしたリーアム・ニーソンがさりげなく登場する。
ガブリエル神父は、素手で、険しい滝を登り(ここで『世界の果てまで行ってQ』登山隊のイモトアヤコがマッターホルンなどに登頂したことを思い出す)、グアラニー族の村に入る。神父は警戒する村人に囲まれながら、あの「ガブリエルのオーボエ」をふく。三原舞依が2017-2018に滑った、あの美しい音楽だ。
ガブリエル神父とグアラニー族はうまくいって、キリスト教の布教も順調に進む。ある日、奴隷商人のロドリゴ・メンドーサ(ロバート・デ・ニーロ)が、村の通り道の上に網をしかけて、グアラニー族が下を通る瞬間にばさっと網を落として、人間を生け捕りにして、連れ帰って奴隷として売ってしまう。
この場面を見て、一瞬にして、世界中の先住民が受けてきたひどすぎる仕打ちを思い、急激に心が暗くなり、映画に対して嫌な予感しかしなくなり、映画を見るのにものすごい我慢がいった。でも、三原舞依が滑ったプログラムの映画なので、最後まで見たかった。
布教によって村は整い、農場での収益は平等に分配し、逃亡してきた先住民奴隷も保護する。だが、成功したが故に、植民地支配層の反感を買うことになり、村がポルトガル領に編入されることで、先住民は自らのルーツである土地からの立ち退きが要求される。宣教師達はグアラニー族とともに戦うことを選んだ。「勝てるわけがないから逃げてほしい」とわたしは単純に思ったが、彼らは逃げなかった。移動したとしても奴隷になるなど、未来には悲劇しかないのだろう。最後は予感をはるかに上回る、心が破れる大量虐殺で終わった。ひどすぎる、悲しかった…
しかし、ひとつ知ったのは、暴力や死を前にしても自らの信念を貫いて死ぬという生き方もあるということだった。「こんな映画は嫌だ」と思いながら見ていたが、植民地当局の軍隊を前にして、十字架を手に前を向いて歩いて行くガブリエル神父の姿は、神々しく、一つの生き方を示していた。目をみはった。こんなふうに生きて死んだ人が、本当にいたかもしれない。
前から思っていた。イエズス会の宣教師のあの熱意はどこから来るのだろう。実際に世界のあらゆる土地に入っていく宣教師はものすごいが、もしかして彼らは、上部の人にだまされているのではないか??崇高な魂を、もっと大きな力に利用されているのではないか??それに、一神教であるキリスト教が世界中のに人にあてはまるということだが、来られたほうは、ありがた迷惑な部分もあるのではないのか??あるいは、天にまします我らの神の存在が本当にあるのか。なにもしない人間が偉そうにいうのは本当に申し訳ないが、でも、そんな思いがある。
でも、このごろ思うに、ガブリエル神父のように、信念を持って周りの人を大事に、行動はがんがんとアグレッシブに、という生き方は、命の使い方としては切なく尊い。できる人は少ない。救われる人も多い。
アメリカ、南アメリカは先住民が追いやられて、ヨーロッパ諸国の人たちが外から入ってきて我が物顔に振る舞ってできた国だと習った。本もたくさんある。日本も弥生時代から中国からの渡来人があった。人間の歴史というのは血なまぐさいものだ。

でも、奴隷商人だったが弟を殺したことから自らを責め、改心したメンドーサのような人もある。ロバート・デ・ニーロは名演だった。
映画の最後、メンドーサと一緒に行動していた子供たちが生き残って、服もないまま、素っ裸で小舟にのり、川を移動していく場面で終わる。なんとか生き延びてと祈る気持ちで映画を見終えた。
さらに、エンドロールのあとに、虐殺を止められなかった枢機卿が出てくる。手紙の文章で「この虐殺で死んだのは自分で、ガブリエルたちは心の中に生きている…」と。映画を見た自分の心の中にもガブリエルたちは生きている気がする。この映画を忘れたくない。
1:00ごろから、先住民の村についたガブリエルがふく「ガブリエルのオーボエ」。作曲はエンニオ・モリコーネ。