抜き書きその③です。
「「おそらくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」「僕は愛というものをもっと違ったふうに考えています。そうして、子供達が責めさいなまれるように作られた世界を愛することなどは、死んでも肯んじません」
320ページあたりからのパヌルー神父とリウーのやりとりの部分は、『異邦人』の最後にでてきた部分と同じテーマで、苦難を神があたえたものとして自ら納得して耐え忍ぶキリスト者の立場と、ものごとをあるがままにとらえる職業人で生活者であるリウー医師との考えの対比が鮮やかにでている。自分がキリスト教に感じていた違和感の奥底がこの部分にあると感じている。言葉にすることができなかったが、リウーと同じ思いを自分はずっと持っていたと感じた。主人公と同じいらだちを感じてきたので、カミュを読めてよかったと思う。
新型ウイルスが傲慢な人類をいさめるものだなんて自ら進んで思いたくはない。死者が少ないからといって、日本が素晴らしい国だと手放しで思わない。運が良かったのもあるし、運がよかったことを自慢したくない。それに、これからがあるのだ。
それはさておき、パヌルー神父の話には、すごい話があった。
「パヌルー神父はマルセイユのペストの際のベルザンス司教という格式高い人物の姿を持ち出した。彼が指摘するには、疫病の終わりの頃、司教はなすべきことをすべてし尽くしたあげく、もう手段はないものと信じ、食糧を蓄えて家に閉じこもり、その家には塀をめぐらした。それまで彼を偶像としてあがめていた町の住民達は、極度の悲しみの際によくみられるような、感情的な反動で、司教に対して憤慨し、その家の周囲に死体を積み上げて感染させようとし、もっと確実に死なしてやろうとして、塀の中に死体を投げ込んだりまでした。そんなわけで、司教は最後の心弱さから、死の世界のなかでひとり孤立することができたように思っていたのであるが、しかも死者たちは空から彼の頭上に降ってきたのであった。われわれの場合もまたそれと同様であり、ペストのなかに離れ島はないことを、しっかり心に言い聞かせておかねばならぬ」
「保健関係の人々は相変わらず消毒ガーゼのマスクの下で呼吸をし続けていた」
このあたりから、話は飛躍する。「えっ、そんな話になるのですか…、そんなつもりで読んでいるのではないんです…」と身構えるような、かなり高尚な感じが強くなる。
「誰でもめいめい自分のうちにペストを持っているんだ。なぜかといえば誰一人、まったくこの世に誰一人、その病気を免れているものはないからだ。そうして、ひっきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、他のものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは病菌なのだ。ほかのものー健康とか無傷とか、なんなら清浄といってもいいが、そういうものは意志の結果で、しかもその意志は決してゆるめてはならないのだ」
「「僕が心をひかれるのは、どうすれば聖者になれるかという問題だ」「だって、君は神を信じてないんだろう」「だからさ、人は神によらずして聖者になりうるかーこれが、今日僕の知っている唯一の具体的な問題だ」」
「病疫のこの突然の退散は思いがけないことではあったが、今日まで過ぎ去った幾月かは、彼らの解放の願いを増大させながらも、一方また用心深さというものを彼らに教え、病疫の近々における終息などますます当てにしないように習慣づけていたのである」
「人間が意気地なしになるような時刻が、昼夜ともに必ずあるものだし、自分が恐れるのはそういう時刻だけだ、と」
「人が常に欲し、そして時々手に入れることができるものがあるとすれば、それはすなわち人間の愛情であることを。これに反して、人間を越えて、自分にも想像さえつかぬような何ものかに目を向けていた人々すべてに対しては、答えはついに。来なかった」「彼らの欲したものを手に入れることが出来たとしたら、
それは彼らがただ一つ自分たちの力でどうにでもなることだけを求めたからであった」
「ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類の中に眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、辛抱強く
待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な年に彼らを死なせに差し向ける日がくるであろうことを」
という怖い文章で終わる。
1947年に発表された小説だ。今でも、ペストは絶滅しておらず、地域的なものとして散発している。鼠、犬、猫を宿主とし、ノミが媒介して人に感染するそうだ。治療した場合の致死率は10%くらいで、治療しなかったら6割から9割にはねあがる。これはエボラ出血熱の4割から7割よりも高い。小説の最後でも、大事な人たちが亡くなったりするので、つらい。
主人公の医師が物語の中心で、語り手のような役目だ。転地療養している妻とは離ればなれになる。取材で市にいた新聞記者は、閉鎖した市から出られなくなり、裏の手をつかって出ようとするが、心変わりする。逮捕されることにおびえる犯罪者は不安から自殺を図るが、市の閉鎖で逮捕の不安が減って元気になる。イエズス会の神父はペストに対して考えをめぐらせる。違った立場の人たちがどんな反応をするか、これは今のコロナウイルスパンデミックでも同じだなと思った。
死者数が発表されて、最初はその数がどの程度のものなのかわからないところも、今と同じだ。最初のころ、ざっと調べてみて、例年のインフルエンザの死者数がものすごく多いことに驚いたし、交通事故や自殺の数もコロナよりもぐっと多いことを知った。だからといって警戒しなくていいのではないこともわかった。コロナウイルスは新型なので、まだ得体が知れないのだ。
この小説のペストは、脚の部分がはれることが発病の兆候だ。新型コロナは味覚嗅覚がなくなることが一つの兆候らしい(と言われている)。
違うのは、市民が三密の状態を避けないこと、たとえば、飲食店で食事をしたりお酒を飲んだりすること、ソーシャルディスタンスをとらないこと、マスクをしないで話をすることだ。そして伝染病の始まりは、鼠が道の真ん中など、異常な場所で死んでいることから始まった。
こんな状況でなかったら、カミュの『ペスト』を読むことはなかったと、確信する。カミュはこの小説で「不条理」を描いた。道理に反すること、筋道が通らないことという意味だが、実存主義の用語では「人生に意義を見いだす望みがない絶望的な状況、限界状況」を言うそうだ。病気という不条理にこれからどう臨んでいくのか、やはり、無駄に騒がず、たんたんと、よく考えて、出来事に対処していくことしかないだろうかと思った。
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