『復活の日』も、最近読まれているということで、読んでみた。1964年、小松左京が30代の時の壮大なとんでもない小説だ。冒頭から、潜水艦が登場する。地球上の人間がみんな死に絶えていることをほのめかせる描写が続いて、読んでいて、ひとり、騒然とする。
生物化学兵器として研究されていたMM-八八菌という核酸だけのウイルスが奪われて、それを運んでいた小型機が冬のアルプス山中に墜落する。春が来て、ウイルスは爆発的な勢いで世界各地に広がり、医療関係者も何が原因かわからず、なすすべもなく人類は滅亡する。
そのウイルスというのは、宇宙から持ち帰った物質にくっついていたウイルスで、宇宙由来なので、たぶん、わけがわからないウイルスだという設定だ。地球のものでなくて宇宙から持って帰ったものだというところが、荒唐無稽な感じもあって、荒唐無稽ではないかもしれないけれど…、おもしろい。しかも、たぶん…、発病したあとは、ウイルスは自らの特徴的な姿を消してしまうという。
ええええ!!!
調べても何が原因かわからない。お手上げなのだ。たぶん、PCR検査をしてもわからないのだろう。たぶん。
人は何が何だかわからないまま、単なる風邪のはずなのに、死に至ってしまう。仕事中に、道を歩いているときに、地下鉄で移動中に、ばたばたと死んでしまう。地球は動作中のままの白骨が散らばった廃墟になる。
最後に生き残ったのは、隔絶された南極基地の1千人だけだった。氷に閉ざされる閉鎖空間で共同作業をしていけるような、南極基地の隊員に選ばれるような、協調性があり、我慢強く、専門技術がある人ばかりが生き残るというところを読んで、そんな理性的なメンバーなら復活の可能性があがるのではとも思った。
ただ、1000人の中で女性が16人くらいしか残っていないので、繁殖計画が必要というくだりになると、かなり嫌な気持ちになった。ぞっとする。女性の重すぎる負担を思うと、もう人類はなくなってもいいんじゃないかと思うのだが、たぶん、1964年くらいの世界では、人類は連綿と続いていくべきものだという疑う事なき共通認識があったのではないかと推測する。滅亡するということが恐怖だったのではないかと想像する。いや、今でもそうかもしれない…。
この小説はそれだけで終わらない。生き残った南極の人たちに、巨大地震と核兵器が襲いかかることになる。指導者が死んでも自動的に稼働する核兵器のボタンがアメリカとソ連に設置されていた。地震が起ることで、核兵器が発射されて、その一つが南極に落ちてくるというのだ。それを阻止しようと決死の行動をするが核は発射してしまい、でも、中性子爆弾だったので、宇宙由来のウイルスが無害化するという、「あ、まさか、助かったのかな…」というびっくり仰天の、たぶん、ラッキーな最後になる。そして、南極への核は設定されていなかった。
印象に残ったのは、死を覚悟しながら、主人公が船から下りて泳いでアメリカに上陸したときのことだ。いい天気で、緑の植物がたくさん茂っていて、とても気持ちがいいと感じる部分だ。ずっと南極にいたのだ、ワシントンは死に絶えた街になっているが、植物は生きて輝いている。地球の自然の恵みというものを実感した。
ああ、地球っていいな!
太陽光線と青い空と、緑あふれる大地…、そういうものにしみじみと愛しさを感じた。
植物は素敵だ。太陽光線もうれしい。空をみあげると心が晴れる。雨だって降る様子を見たり地面に落ちていく音を聞くのが好きだ。海や湖を見ても落ち着く。もちろん、そんな自然が身近になくても工夫して生きていくのだろうけれど(地下に居住空間を作るなどして生き延びるSFはたくさんある)、わたしは毎日朝起きて見ている、ありきたりな植物たちが、急に大事に思えてきた。その植物に降り注ぐ太陽光線の美しさにハタと気がついた。
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